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2013年03月07日

蠣崎貞広

蠣崎貞広

生年不明~1635年没。
慶広兄弟の末弟。正広の養子となり、慶広の松前改姓後に蠣崎宗家の家督を継いだ人。
寛文家老ズの蔵人広林の祖父。
家老職には就かなかったものの、公広が藩主としてやっていけるように尽力したとか。

彼の息子利広が蔵人を名乗るようになるものの、慶広の息子にも同じ利広という名の人物が存在し、二人とも蔵人を名乗ったことがあるとかですごく紛らわしい。
慶広の息子、松前長門守利広は謀反を企てたため松前を追放され、その後に貞広の息子の利広が蔵人を名乗ったという流れではないかな。

慶広が亡くなり、孫の公広が藩主になったのが1617年、松前利広の追放が1618年。
慶広藩主時代に家老職へ就いていたのはたぶんに、松前利広と主殿助を名乗り始めた守広。その陰で貞広が公広の世話をしていたのではないかしら。慶広が亡くなったのをいいことに松前利広の謀反という事件が起きたり、守広も娘を公広の側室へ嫁がせたりと、権力争いが顕著になってしまった気がする。

先代トリオ(公広・利広・友広)あたりの時系列を整理したら、始祖トリオ(慶広・正広・守広)と寛文トリオ(泰広・広林・広隆)が紐解けそうです。
ざっくり年表のほかに松前トリオ年表が必要ですなw

以下、戦譚用の妄想。
  ↓ 

前回の記事にも書いた守広邸の火災があって、守広が自殺してしまうわけですが、婚姻関係を駆使して裏の権力者になりつつあった守広に対して、親公広の藩主主導派だった貞広は、守広を相当責めて自殺に追い込んだ真犯人ではないかなあとも考えられそうで、蠣崎家おっかねえなあとか。
貞広の嫁さんは守広の娘だけど、権力抗争にそんなの関係ないよなあとか。
ここら辺から蔵人流と主殿流の対立が生まれたんでないかなあとか。

守広の息子友広は何かあるたびに守広邸火災を言われてていそうだなあとか。
一方で貞広の息子利広は正広の家督相続に敗走したことを言われていそうだなあとか。
公広は家老同士だのにそんな足の引っ張り合いをする、友広と利広をなだめていそうだなあとか。

寛文家老ズは先代たちのイザコザが尾を引いていて、本人たちの意思とは無関係に周囲が対立を煽るような雰囲気だったんじゃないかなあとか。

そんなところに起きた寛文蝦夷蜂起。

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Posted by 赤崎いくや at 18:41│Comments(0)戦譚シャクシャイン
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